来訪者


 俺は眠かった。でもベッドに横になる気がしなくて、座ったままでウトウトとしていた。
 部屋には小さなランプの光がひとつあるだけで非常に薄暗い。おそらく目を開けていれば自分の足元もまともには見れなかっただろう。
 カビのような匂いがする。部屋の隅でガサガサとねずみが歩くのが聞こえる。別に気にはならない。いつものことだから。
 薄暗く、陰気な、そして腐臭の漂うこの部屋。あるものと言えば足の腐りかけた円机と木のベッドが一つだけ。狭い部屋はあまりにも殺風景だ。
 きっともう、俺は目隠しをしてもこの部屋で生活が出来ると思う。この小さな部屋にあまりにも長い時間閉じ込められていたから。
 本当に静かだった。ねずみの足音などでは壊すことが出来ないほどの静けさが、狭い部屋を蹂躙していた。
 この独房では仕方のないことかもしれない。ついこの間来たばかりの世話係を脅かして以来、ここには誰も寄り付かなくない。
 まぁそれも、世話係が選ばれるたびに行なわれるお馴染みのパターンだったりする。誰も近くに寄らなくなるのは願ったりだが、そのたびにメシが不味くなるのだけは正直どうにかして欲しかった。
 しかし俺はメシの為に奴等と馴れ合いをするほどプライドは捨てちゃいない。…少なくとも、あと三段階位なら耐えられそうだ。六年後まではこのプライドを持ち続けられるだろう。
 ふ、と目が冴えた。
 何だろうか。まるで浅い眠りの時にシェイドに吐息をかけられたような、不吉な感覚。
 いや、しかしこれは…感覚と言うのだろうか?思考の果てに何かに気付いたような、思いついたような、奇妙な意識の冴え。初めての『予感』。
(…なんだ?)
 すっかり覚めてしまった目を天井に向けた。
 相変わらず薄汚れた石の板に、かすかにゆれる光を宿してランプが存在している。
 部屋の隅を見る。視線を向けた瞬間に、ガリガリに痩せた鼠がどこかへ疾走していった。
 ・・・何も変化は無いように見える。気のせいか?
 しかし、それは気のせいではないことがすぐに分かった。

 誰かが石の階段を降りてくる音が聞こえてきた。
 誰だろう、こんな時間に。昼食を一時間前に食ったばかりだから夕食と言うわけじゃないだろう。だとしたら、一体なんだ?またあの男だろうか?まだ、諦めていないのだろうか?
 いや、もしかしたら――
 ついに決心したのかもしれない。やっと理解したのかもしれない。
 そう。俺は決して屈したりはしないのだと。あの男にだけは。

「食事の時間にはまだ早いんじゃないのか?何の用だ?」

 足音が十分近づくのを待ってから言った。例え目的が何だとしても俺は従うことはない。そう、口調に込めながら。
 扉の向こうで小さな悲鳴が聞こえた。
 小さな――細い、声。まるで子供のような。
「!」
 思わず息を呑んでいた。信じられない。まさかこんなところに、子供が居るって言うのか?
「誰だ…?」
 思わず声に出して言い、俺はベッドを軋ませて立ち上がった。
 独房の鉄扉には、中の様子を確認するための格子窓が付いている。それはすこぶる小さく細い隙間であって、目を当てて覗き込むだけにしか使い道のないものだ。
 だがその隙間が今の俺には実に重要な『眼』だった。この『眼』は扉の向こうとこちら側を相互に繋いでいる。
 これがなかったら俺も扉の向こうに来る誰かも、ここでは一言も発することなく沈黙を守り通しただろうから。
 姿が見えるからこそ語り掛ける。相手が『ヒト』だと分かる。きっと、この手も入らないような隙間は、俺から言葉が失われるのを防いでいたんだろう。
 牢屋の外を覗くと、牢内よりはるかに明るい光が見えた。刺すような明るさに、目が痛くなる。
 その光の真下で、一人の子どもが立ち尽くしていた。
 恐らく、十代の半ばといったところだろうか。丁度大人と子供の中間くらいの年齢に見えた。
 よく手入れされた金の髪がランプの光できらきらと光っていた。――何かを思い出す様な、輝き。似ている、と思った。
「…一人でここに?」
 呟かずには居られなかった。思わず周囲を見回した。
 こんな子供が、しかも一人でここへ来たというのだろうか。兵士は何をやっていた?こんな子供を俺のような者とに会わせるなんて、あまりにも愚かしいことだ。
(いや…待てよ)
 まさか俺が『何』か知っている兵士たちが、ここに子供を入れる訳がない。おそらくはこの子供が忍び込んだのだろう。…そうとしか思えない。
 浅はかなものだ。もしここに何か狂暴なバケモノが居たらどうするつもりだったのか…。
 まぁ、俺もバケモノと呼ばれる類のものだ。大して差があるわけではないか。
「お前は誰だ?何故ここに来た?」
 たしなめるつもりだった。俺の様な者に言われたところで意に介するかどうかは判らなかったが、浅はかな行動には痛みを伴った結果が返ってくるもの。それを言うべきだと思った。この城に、そんな言葉を持つ者が居るかどうか判らなかったから。
 ところが。
 俺の言葉に対してその子供は、怒りを露にして叫んだのだ。
「口を謹むが良い!僕はこの城の主の息子、第一王位継承者パキラ・レムレト・ルーナ・ジェドだぞ!」
 声が響き、わぁんと反響した。
 凍り付いたような気がした。俺も、相手も。
 冷え切った意識の端で、上の階から誰かがやってくる音を聞いた。恐らくは声を聞きつけた兵士が調べに来るのだろう。
「……」
 なぜ、ここに。子供が来たのかと思った。そもそもこの城に子供が何人居るのだろうかと、思っていた。
(あの男の…息子…)
 頭が痛いような気がした。吐き気に似たものを感じる。めまいがした。
 金の髪はなるほど、確かにジェド王家男子の証でもある。懐かしい金の色。
「パキラ王子…か」
 呟くと、少年が弾かれたように振り向いた。
 ――目の前の少年が関係しているわけではない。それは、判っている。
 しかしそれでも。感情は止められないのだ。
 嫌悪。憎悪。黒い感情は良くないものを引寄せる。今の俺に見えなくても、その存在は肌で感じられた。
「あの男の息子と言うことか。生憎と、この俺にその肩書きは通用しない。」
 棘のある言葉が飛び出す。つもりは無くとも、感情は理性を超えて無意識に働きかける。そもそも俺の理性はその感情を止めるつもりなどはなから無いようではあったが。
 王子は俺の言葉に明らかに気分を害した様だった。
「僕はこの国の王子だ!父上に進言することも出来るんだぞ!」
「俺を殺すように、か?構わない。是非そうしてくれ・・・」
 もはや構わなかった。相手の目を見据えたまま挑発するような物言いをしてしまう。
 それに――言っていることに嘘は無い。
 もし王子が国王に言って俺を殺そうとも、もう構わないのだ。
 むしろなぜ俺が今ここで生きているのか。今ではそのことの方が奇妙なものだったから。
 少年はさらに目を怒らせると、口を開いた。
 しかし気づいていない。その背後のすぐに、すでに兵士が降りてきていたのだ。
「ぱ…パキラ王子!?何故ここに…!?」
 開いた口を半分閉めて、驚いた姿勢のまま振り返った。
 ――ようやく、ここから出て行ってくれる。
 俺にとって『王家』と名の付く者は、もはや紛れも無く不愉快なものだったから。
「僕がどこに居ようとお前には関係ない!…僕がここに居ることに関して、何か文句でもあるって言うのか?」
 忘れているのか知らないが、ここは子供の入るようなところではない。牢だ。囚人を閉じ込める場所だ。
(居てはいけないに決まっているだろうに)
 嘲笑のような気持ちが湧き出す。あの男の息子らしい、と思った。
 困りきった兵士は、なにやら呟いているらしかった。しかし何を言っているのかまでは聞き取れない。恐らくそれは、至近距離に居るパキラ王子も同じことだったのだろう。
 王子の顔が、怒りで歪むのが見えた。
「なんとか言ったら――」
「さすがだな、パキラ王子?」
 わざと声を張り上げた。嘲笑の音を込めて。
 これ程までに似た親子は居るのだろうか?もはや『王家』の者だから、ではない。
(俺は、この餓鬼が嫌いだ!)
「僕は父上の、国王の息子だ!お前とは立場が違うんだぞ!!」
「・・・まぁ、確かに違うな。お前たち親子は『殺人鬼』だが、俺はまだ少しはマシなつもりだ。」
 動揺するのが手に取るように判る。
 相手はあまりに子供だったが、権を振り回すこの餓鬼がどうしても俺には我慢ならない。
 パキラ王子は真っ赤になって怒って言った。――まさに、思ったとおりの言葉を。
「『殺人鬼』だって?そこまで言うなら望み通りに…」
「王子!いけません!!」
 慌てて兵士が割って入る。
 王子の脅しよりも今現在の事態のほうが由々しき物だと思ったらしい。
 ――そこまで慌てる必要もないのに。どうせあの男には、俺は殺せはしないのだ。
(殺せば良いものを。)
 今更何を躊躇っているのか、理解が出来ないことだ。
「ここにこれ以上居てはいけません!さぁ、行きましょう!」
「僕に命令を…」
「王子!!」
 兵士が食い下がっている。
 その額からにじんでいる汗。――恐怖の感情。
(俺に向けてか)
 今の俺に何が出来ると思っているのだろうか?
 ――まぁ、しかし。その恐怖は正しいのだろう、恐らく。
 俺は、バケモノだから。
 パキラ王子がついに折れた。
 安堵した顔の兵士に連れられて、階段を上り始める。――兵士の顔にはまだ、ほんの少し恐怖が残っていたが。
 俺は格子の間から目を離した。もはや視界には誰も居ない。ただ残っているのは階段を上る硬い音だけ――

「…もう二度とここへは来るな、パキラ王子。」

 聞こえたかは判らなかったが、言葉の直後に扉が閉まる音が響いた。
「行ったか…」
 ようやく静けさの戻った空間。
 先ほどまでのだるい様な眠気はサッパリ無くなってしまった。
 まだ不愉快さの余韻は残っているものの、それ程の強い感情ももはや、無い。
 部屋の隅でねずみがガサガサと歩いた。天井のランプがゆらゆら揺れた。
(元通り、か…)
 結局は何事も、この場所を通り過ぎていく。
 『予感』など所詮は気のせいだった。ほんの少しいつもと違うことがあっただけ。
 また今までと同じ生活に戻る。この狭い牢の中で、ただ生きるだけの日々を過ごす。
 俺はここに居るしかない。そしていつか、この場所で死ぬんだろう。
 それならそれでいい。
 だから、早くその時が来れば良いのに、と、思った。
「…ふん」
 自分自身の甘ったれた思考に反吐が出そうだ。
 そのときを待たなくても、やろうと思えばいつでもできた。
 しなかったのは、ただ俺自身に度胸が無かったから。結局は、言葉だけの戯言。
「…散れ」
 腕を回した。
 周りに集まっていた良くないものが散り散りになって消えた。

 ――最近、気配を強く感じるようになった。
 引き寄せられて来る訳ではなさそうだ。それほど暗いことばかり考えていた覚えも無い。
(抑えられなくなっているのか…)
 頭をぐるりと一周して巡らされた、鉄環。
 もうこれでも抑えられないところまで、『力』が高まっているとしたら――?
(いつか…果たせるのかもしれないな)
 寄って来た気配を払って、今度こそベッドに横になった。


「おい…起きろよ!いい加減!」
 呼ばれているのには気づいていたが、返事をするのが億劫だった。
 これだけ無視し続けられれば、余程のことでない限りは普通あきらめるものだが。
 ――それとも、『余程のこと』なんだろうか?
「…何だ。しつこいな?」
「やっぱり起きてたのか!返事くらいしろって!重要な用事なんだぞ?」
 その言葉に、眠たい意識を冷ましてベッドから体を起こす。
 格子の間から藍色の目が覗いていた。
「…重要な用事、とは何だ?何かあったのか?」
 何があったとしても、厳密に俺に関係があるとは思えなかった。何かをしろと言う用事だとしても、従うつもりはない。
「ヤバイんだよ…!マジでさ!」
 臆すこともなく言い放つ。
 この城では恐らく唯一、俺とまともに話す人物であろうそいつを、俺はにらみつけて言った。
「だから何が、だ。良いから早く用件を言え!」
「ああ…うん。ごめんな。でも俺もちょっと今、混乱してて…」
 言うと相手は、ふぅ、と長い息を吐いてから決心したように瞳を上げた。
「落ち着いて聞けよ?」
「ああ。」
「あのな…」
 そして相手は、言った。


「ビスコパールが、エレメントラ軍に落とされたらしい」





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