ホワイトデー
1.台所の二人


 今日の仕事は午前中のみ。 午後になれば時間がある。 しかし問題は『いかに悟られずに行動を達成するか』、だ。 準備は前日の内に済ませてある。 あとは行動を起こすだけ…しかし、これが一番の問題だ。
「さすがにオーブンは貸せないよ。ごめんね」
 それは昨日のこと。 『その日』が近づいて、聖樹はまたアルバイト先の調理場を借りようと思っていた。 しかし今回はチョコレートに必要なものよりも多くの設備と時間を必要とする。 さすがに今回ばかりは調理場を借りることはできなかったのだった。
 ドランは今日は仕事があるし、ドードはなにやら張り切って出かけていったから夕方まで帰ってこないと思われる。 ドナルカミ女王とドルクは二人で買い物に出かける話をしていたので今は家に誰も居ないはずだ。
 何時間も掛かるような作業では無いのだから、皆が帰ってくるまでには完成するはず。 それでも心の片隅に不安はあった様で、自然と足が速まった。
 気付けば、いつもの半分くらいの時間で宿の前へと戻ってきていた。 冷たい空気の中で荒い息が白く漂っている。 聖樹はゆっくりと呼吸をしながら鞄の中から鍵を探して鍵穴に差し込もうとした。
「……あれ?」
 …鍵が開いている。誰かが鍵をかけ忘れたのだろうか?それとも、まさか泥棒が…?
 聖樹はあわてて扉を開けた。 入ってすぐ、玄関には特に違和感は感じられない。 ゆっくりとあたりを見回しながら歩を進める。
 何か聞こえはしないかと耳をそばだてる。 自分の心臓がドキドキと音を立てているのがはっきりと聞こえてますます鼓動が早くなった。 緊張で喉が渇く。ゴクリ、と唾を飲み込んだ。
 ゆっくりと歩を進め、リビングへ続く扉に手をかけた。 そっとノブを回して細く扉を開ける。 カウンターの奥の台所で何者かが動いている気配がした。
(誰…でしょうか…)
 更に扉を開き、足を踏み出した。 その時、古い木の床板がギシッと音をたてた。背筋に冷たいものが流れる。
「誰だ!」
 瞬間、台所から鋭い声が飛ぶ。 聖樹はギクリと身を強張らせたが、すぐにその声が聞き覚えのあるものだと気付いた。
「…ドルクさん?」
「せ…聖樹!?」
 台所から覗いている顔は、ドルクだった。 驚愕の表情を貼り付けたままドルクは台所に一人で立ち尽くしていた。
「あれ?今日は出かけて居たんじゃ…?」
「聖樹こそ…今日の仕事は?」
「私は今日は午前中だけです。ドルクさんは台所で何を…?」
 そこまで言いかけて、聖樹は台所のオーブンから黒い煙が出ていることに気がついた。 同時に香ばしいような焦げ臭いような匂いが漂ってくる。思わず眉をしかめた。
「ドルクさん…オーブンが何か…」
「え?…あっ!」
 ドルクは振り返り、あわててオーブンに駆け寄った。 扉を開けると同時に黒い煙がもうもうと立ち上る。 咳き込むドルクの横で聖樹が台所に駆け込み、換気扇を回した。
「だ、大丈夫ですか?」
 パタパタと手を振って煙を散らしながら聖樹がドルクに声をかける。
「一体何を作っていたんです?」
「あ、いや、聖樹には関係の無い物だから…その…気にしないで」
 聖樹はオーブンを覗き込もうとしたが、ドルクは聖樹の目からそれを隠そうとする。 首を傾げながら聖樹は言った。
「もしかして、クッキー…ですか?」
「そ…その…」
 ドルクは口篭った。 何とか誤魔化そうと口を開くが、こうも綺麗に言い当てられてしまっては誤魔化しようがない。 困った表情で目を泳がせるドルクを見て、聖樹が柔和な微笑みを浮かべた。
「ドルクさん、実は…ですね」
 言って聖樹は鞄の中に手を入れて大きな紙袋を取り出した。 首を傾げるドルクの目の前で、その袋の口を開ける。
「私も、同じことを考えていまして…」
 袋の中から出てきたのは小麦粉、砂糖、卵…クッキーを作るための材料が一式だった。
「本当は、誰も居ない内に作るつもりだったんですが…」
「私も…聖樹の居ない間に作りたかったんだけど、何度も失敗してしまって…」
 恥ずかしそうにドルクは俯いた。 最近ドナルカミ女王の料理を手伝って少しずつ上達してはいるが、未だに家事が上手くならない。 レシピを見ながら作ればクッキーくらいは作れると思っていたのだが、どうやらその考えは甘かったらしい。
 家族全員が出かけたのを見計らって作業を始めたのは良いが出来上がった生地は妙に柔らかく、型で抜くことが出来ないほどだった。 それでもとりあえず焼いてみればどうにかなるのでは?とオーブンに入れたは良いが、生焼けだったり黒こげだったりと上手く行かない。 温度や時間を調節して試してみても、中まで火が通るように調節すると表面が黒くなりすぎるし全体が良い色になるくらいにすると中が生焼けになってしまう。 これは自分の作った生地が悪いのか、それともレシピが悪いのか…聖樹が帰ってきたのは丁度、そんなことを悩んでいるときだった。
「やはり、私にはこういうことは向いていないのかもしれない。こんなに材料を無駄にしてしまって…」
「大丈夫、材料ならまだここにありますから」
 ため息を吐くドルクに聖樹は紙袋を示した。
「もう一度、今度は私と一緒に作りませんか?」
「え?」
「私もあまり料理は得意じゃありませんが、二人なら成功するはずです!」
 聖樹の勢いにドルクは少し戸惑ったが、すぐに微笑を浮かべて頷いた。
「うん。…今度は上手くいくと思う」
 二人は笑い合うと、お菓子作りの準備を始めたのだった。



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