思い出と旅立ち


 激しく息を吸って吐いて。心臓の鼓動が激しくて、中々止まってくれない。全身から冷たい汗が噴出し、寒々しい色のシャツにしみこんで酷く気持ちが悪かった。

(もう…出たんだろうか?宇宙に…)

 閉じていた目をゆっくりと開く。機内の眩しい光が目をさして頭が痛かった。
 正面の大窓の中にはどこまでも真っ暗な宙と、無数の白い点。時々瞬いて見える光は探索艇か何かだろうか。

(行けるところまで…)

 このまま逃げ切れるとは、思わない。マザー・イライザは逃亡を許すことは無いだろう。…じきに追跡船が来て、攻撃される。

(それでも…)

 どこまで行けるだろうか。もしかしたら、何処か遠くへ行けるかも…しれない。行きたい。遠くへ…。

(ママ…パパ…)

 ――帰りたい。
 胸に抱いた絵本を強く強く握り締めた。



 もう、よく覚えていない。
 大好きだった両親。自分の部屋。青い空。嗅ぎなれた空気…。
 手元には何も残らずに、全て消えてしまった。…一冊の絵本、以外は。 
 どうやってこの一冊の本をここまで持ってきたんだろう。成人検査は記憶も、思い出も、感情も…持ち物も全て奪っていくのに。それなのにこの本だけがずっとシロエについてきた。
 どうやってここまで持ってきたんだろう。どうして手放さずに済んだんだろう。…覚えていない。持って行きたい…と願ったことは覚えているのに。どうしてここまで持ってこれたのか…なぜ機械は彼からこの『思い出』を奪わなかったのか…

(違う…)

 奪われなかったのではない。そう…ほとんど覚えてはいないけれど、一度この本は奪われた。
 その存在も忘れた。何もかも、忘れていた。それなのに…いつの間にか、その本は再びシロエの前に存在していた。
 どうやってそこに現れたかは分からない。しかしその本を手にしたとき、シロエは思い出した。機械が自分にしたことを。大切な思い出を。胸の苦しさを。

(もう、忘れない)

 あんなことを、忘れられるはずがない。


 胸に本を抱いたまま、シロエは食い入るように黒い世界を見つめる。
 どこまででも行こう。どこかへいけるとは思わない。
 それでも、どこまででも、いく。

(――帰ろう)

 小さな練習艇が暗闇の中へと消えた。



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