ひとり旅立ち


 暗い部屋の中にぼんやりと浮かぶ見慣れた部屋。きっともう目を閉じても歩くことが出来る、自分の部屋。幼い頃から使っていた柔らかな毛布、高さの変わる椅子と机。絵本から技術書まで並べられた、本棚。
 毎日眺め、見慣れていたこの光景も…明日からはもう見ることもない。

(これで最後…なんだ)

 月明かりの差し込む窓辺に腰掛けて、少年は薄らと微笑みを浮かべていた。見慣れた自分の部屋。誕生日を過ぎて14歳になれば、もうここへ帰ることもない。…自分は、大人になるのだから。
 自分の殻を脱ぎ捨てて、大人の世界へ。それは誰もが一度通る道だ。学校の友達も先に何人か大人へと変わっていった…。次は自分の番。
 階下で眠る両親。二人に会うのも、明日の朝が最後。その後はたった一人での旅路につく。大人への旅。大好きな両親にはもう会えなくなる。

(これで、最後…)

 大好きな母。大好きな父。大好きな家。大好きな部屋…
 大人になるには自分の殻を脱ぎ捨てなければ。今持っている自分を全て捨てて…新しい人間になる。もうこの机にも、ベッドにも、本にも触れることはない。

(本当に…持っていっちゃ、ダメなのかな)

 捨てたくないものもあるのに。ずっと持っていたい大切なものがあるのに。
 彼は弱い月明かりの下で手にした本を静かに開いた。大きな丸い月の上を飛んでいく人間の絵。…ピーターパン。
 幼い頃から技術者として忙しかった父。その本は、寂しい思いをしていた彼に初めて父が贈ったプレゼントだった。子供向けの薄っぺらい絵本ではあるが、今でも彼の一番の宝物だ。
 暖かい思いがある。優しく包み、守ってくれる腕がある。そんなかけがえの無い場所。その象徴。
 捨てていくには大きすぎた。どうしても、一緒に連れて行きたい。…それは許されないことなんだろうか。大人にはそんな感傷、必要ないものなんだろうか…
 何があっても手放したくない。それは思い出であり、ぬくもりでもあった。だから…

(ダメとは限らない…よね)

 シロエは翌日の簡単な荷物の中に、その小さな絵本をそっと忍ばせた。



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