FirstStep 突如自動扉が開くと、黒髪の男が大股に歩いて室内に入ってきた。空気の変化に驚いて目を覚まし、体を動かすと椅子にもたれていたせいか肩が痛んだ。 「あ…お帰り…なさい」 彼が恐る恐る声を掛けると男はちらりと視線を向けただけでその前を通り過ぎた。着ていたコートを手早く脱ぐとクローゼットへ向かう。 今、何時だろう…寝ぼけた目を擦り、彼は時計を見上げた。もう深夜と言っても良い。――今、帰ってきたのか。彼の気のせいでなければ目の前の男はもうすでに48時間、一睡もしていないと思われた。 「あの…キース・アニアン少佐」 彼はほとんど掻き消えそうな声を出した。これ以上、彼を――キースを止めないで放っておいたらいつのまにか死んでいてもおかしくないような気がした。 声を掛けられた男は無言のまま振り返る。その表情には何の変化も見られない。 「なんだ、マツカ」 「その…」 ナイフの様に鋭く、躊躇いの無いまっすぐな言葉。まっすぐな瞳。マツカは怯んだ。この男はまだ彼にとって余りにも未知だった。 「一度、仮眠を取っては…もう二日も眠っていないでしょう?」 「…そうだな」 マツカの控えめな提案の言葉に、キースはやっとそれに気づいたような顔をした。ここ数日はあの事件――ナスカでのミュウ殲滅の後処理やら階級特進やらで何かと忙しかった。新しい赴任地。新しい部下。新しい環境… 環境の変化に弱いマツカはすでにかなりまいっていた。椅子に座ったまま眠ってしまっていたのもそんな変化に対する疲れによるものに違いない。マツカの体が弱いのは今に始まったことではないが、たとえ健康な人間の男でも、急な環境の変化に加えて二日も眠らないで居ては体を壊してもおかしくは無い。 「この書類を書き上げたら眠る。…お前は好きにするといい」 言うとキースはすぐさま机に向かう。業務終了を受けたマツカは思わずその場で立ち尽くした。そういうことを言いたいのではなかったのに… (今はぼくのことじゃなくて…) 「マツカ。…やめろ」 机の上の書類から目を離さずに、キースは鋭い声をだした。マツカは飛び上がった。まさか聴こえていたとは…そんなつもりは無かったのに、いつの間にかテレパシーを送ってしまっていたのかもしれない。 「す…すみません…」 マツカは一瞬泣きそうな気分になりながらも、扉へ向かった。 扉を出て、廊下を少し歩くとマツカの自室がある。この区域はメンバーズであるキースのための空間だが、その中にはキースの部屋へ行く前に通過する守衛室も含まれている。そして今は、その守衛室がマツカの自室としてあてがわれていた。 (キース…) 放っておいたら倒れてもおかしくは無い。ここには、彼を気に掛ける者は誰も居ないのだ。…自分が気にしない限りは。 (このままで、いいんだろうか) キースは確かに、マツカを化け物と罵り道具の様に扱っている。しかしその反面…マツカの命を助け、彼のミュウとしての力を否定しない存在でもある。何を考えているのかわからない。自分をどう思っているのか判らない…だがしかし、助けて貰ったことは確かなのだ。 部屋の扉を開けて、椅子に座って談笑していた二人の男に会釈した。マツカがキースの部屋を守っている間はこの守衛室には前任の守衛が詰めることになっている。男たちはマツカが戻ってきたのを見ると浮かべていた明るい笑みを消してマツカの横を通っていった。 (メンバーズの御方に取り入った青二才が…えらそうな顔をして) 「……」 心が漏れて、見える。聴こえる… もはや胸も痛まない。こんなことはペトセラ基地に居た頃から慣れっこだったから…もう、人間の表と裏の違いなどに心動かされるマツカではなかった。 (どうしようか) 部屋に一人になると、急に落ち着かない気持ちになった。先ほどのキースの様子が目に浮かぶ。無理をして仕事を続けているのは明白だった。…あの鉄の様な心の持ち主から、ほんの少しだが感情が漏れてきていたのだから。 キースは焦っていた。恐らく帰還する前に親友のサムの所に寄ったのだろう。彼がサムに会いに行くと言って出かけ、帰ってくるときには大抵何処か焦りと悲しみの様なものが感じられるのだ。一体どうして彼がそんな感情を持つのかはわからない。ただマツカが知っているのは、キースにはサムという親友が居ることと、その彼が病院に居るということだけだった。 (……そうだ) マツカはふと思いつくと、給仕室へと向かった。 「キース・アニアン…」 突如として開いた扉。キースは書類に向けていた目を上げて、入ってきた若者を見据えた。 「…なんだ、マツカ」 「あの…これを…」 おずおずとマツカが手を差し出す。彼はトレイの上に淹れたばかりのコーヒーを乗せていた。 「徹夜は、大変でしょうから…せめてこれを、と…」 「……」 反応の無い上司に不安を覚えながらも、マツカはそっとそのカップを机に置こうとした。…そのときだった。突如としてキースが椅子を鳴らし、立ち上がったのだ。 「…キース?」 鋭い目、厳しい口元…体から発散されるのは、鋭いピリピリとした感情。 一体どうしたことだろうか。マツカは怯えて一歩後退さる。その拍子に手に持っていたコーヒーが床にこぼれた。 「あ…の…何か…」 マツカが怯えながらもキースに尋ねようとすると、キースは素早く机を回ってマツカの胸倉を強く掴んだ。衝撃でコーヒーカップがマツカの手から離れ、落ちて大きな音を立てて割れる。 「何をしにここへ来たんだ?」 「キ…キース…アニアン…?」 「僕の秘書になるために来たわけじゃないだろう。…誰が、コーヒーを淹れろと言った?」 マツカは言葉に詰まった。ただ自分は、キースの体を心配して… 「お前はもうペトセラ基地の一般人とは違う。軍人だ。わかっているのか?」 「…!」 キースはそこまで言うと、やっとマツカの胸倉から手を離した。マツカの体は人形のようにぐったりと、床にしりもちをついて座り込む。まだ手に持っていたトレイが激しい音を立てて床を転がった。 「理解したら自室に戻れ」 呆然と座り込んだまま見上げるマツカには目もくれず、キースは再び書類に向き直った。机に面した椅子に腰掛けると、もはやマツカの存在など忘れたようにペンを手に取る。 「……」 マツカは動かなかった。動けないのではなく…動かなかった。声は出ない。何をどう言えばいいのかも、判らない…しかしそれでも、マツカにはマツカなりの譲れない部分はあった。 (理解、できません。キース・アニアン…) 「・・・マツカ、やめろ」 体は震えてまともに声も出せない。『弱虫マツカ』全く以ってその通りだと自分でも思う。自分の思ったことも伝えられないなんて、弱虫以外の何者でもないじゃないか… (心配してはいけませんか?あなたがどれだけ無茶をしようとも…気にするな、と?) 「やめろ」 キースの声が一段と強くなった。ペンを握る手の動きが止まり、やっと視線がマツカの方を向く。苛立ちが、その全身から立ち上っていた。 (心配することも、貴方の許可を取らなければいけないのですか?僕は…) 「やめろと言って――」 (僕は、貴方の思っているような道具ではありません!) 思わず立ち上がったキースの頭の中で、マツカの声が反響する。マツカの、初めて聞く叫び声。懇願するような… 「……」 キースは椅子から腰を浮かせた状態のまま、しばし険しい顔でマツカを見つめた。マツカはその視線を逸らさない。挑むような、強い視線。 「……」 小さな息を吐いて、キースは再び椅子に身を沈めた。疲れたような表情が一瞬、普段ほとんど変化の無い彼の顔の上に現れる。静かに閉じられた目が何かを思案していた。 「……」 「わかった」 マツカの促すような視線に、キースはやっと返答をする。相変わらずのいつもの表情に戻ったキースは何てこと無い業務連絡の声で、マツカに言った。 「好きにするといい。…心配なりなんなり、勝手にしろ。僕の邪魔をしない程度に、な」 やっと得られた返答に、マツカの表情がぐんと明るくなる。それは喜びの表情というよりは安堵そのもの。ずっと判らなかった相手を理解するための、初めの一歩… 「ありがとう…ございます。キース・アニアン」 「……」 手で力の抜けた体を支えて立ち上がると、マツカはトレイを拾い上げた。その周りにはコーヒーカップの欠片が広がって落ちている。トレイを小脇に抱えたマツカはその欠片を見た後、キースを振り返った。 「ここを片付けたら…すぐに、コーヒー淹れますので、少し待っていてください」 「……」 すでに書類に向かっているキースの返答は無かった。しかし、拒否する言葉も聞こえては来ない。マツカは目元を緩めると、扉へ向かった。 (勝手にしろ) その彼の頭の中に、キースの声が届いた。 |