任務開始


 今日は、ひとつの転機とも言える日だった。ソルジャー・ブルーから言い渡された任務。それはとても重大なもの。
(…本当に、私で良いのですか?ソルジャー…)
 確かに彼は幾度と無くアタラクシアに潜入を繰り返し、無事に帰還を果たしてきた。こういった任務には向いているのかもしれない。
 しかし…今回の任務の重要性は今までとはあまりにもレベルが違う。失敗すればミュウ全体の未来さえ危ういのだから。
(大丈夫…かな)
 不安が胸いっぱいに広がる。これではいけないと判っているのに、失敗したときのことを思うと…怖い。
「リオ」
 空気の抜ける様な音を立てて、背後の扉が開いた。入ってきた中年の男――この船の船長、ハーレイは鏡越しにリオを見ながら言った。
「ソルジャー・ブルーから伝言だ。…潜入用の道具はいつもの場所に置いておいた、と」
『…ありがとうございます』
 リオは振り返り、言った。声が不安で震えるのが判る。――これではいけないと分かっているのに。
 そのリオの気持ちが伝わってきたのだろう。ハーレイは目元を和らげた。
「そんな不安そうにしなくても大丈夫。いつもの任務とそう変わりはしない」
『…でも』
 ハーレイは大股に歩み寄ると、リオの肩に手を置いた。
「君ならできるさ、リオ」
『……』


 船の発着デッキ。リオがいつも使用する潜入用の小型艇が置いてある。いつもは誰も居ないそこに、何人ものミュウが集まっていた。
『あ…』
「お気をつけて、リオ」
 変装用の服を着たリオを、見送りのミュウたちが囲む。不安に縮こまっていた心臓がやっと温かいものを取り戻した気がした。
(大丈夫…私は、独りじゃない)
 リオはその面々に微笑みかけると船の乗船口へと歩を進め、そこにあった棚に手を伸ばした。
 変装の最終段階。あとは、いつものメガネを掛けるだけ。彼は潜入時、いつもメガネを掛けて居た。…と言うのはこのメガネが特別なメガネだからだったりする。ただメガネを掛けている程度では、人間に顔を覚えられることを防ぐことはできない。しかしこのメガネは、ソルジャー・ブルーの思念によって掛けた人の注意をひきつけることが出来るメガネなのである。このメガネを掛けていればリオの印象はただの『メガネの人』となり、髪の色や体格、服装などは相手の記憶に残ることが無い。
(さぁ…頑張ろう…!)
 リオは目を閉じ、心を落ち着けてメガネに手を伸ばした。ひんやりとしたメガネのフレームが手に触れる。
『それでは、行ってきます…!』
 彼はメガネを掛けた完全な変装姿で、一同に振り返った。

 ――その瞬間、爆笑が巻き起こった。

(――え?)
 リオは何が起きたか分からない。何か、可笑しなことを言っただろうか?的外れな行動でも、起こしただろうか…?
『あ…の…?何か…』
「リオ…その…メガネは…どうしたんですか?」
 ハーレイが噴出す笑いを抑えながら、途切れ途切れに問いかけた。
『メガネ…?』
 リオはメガネを外すと、まじまじと自分の掛けていたものを見た。
『…こ…これ…は…』
 それは、ハナメガネだった。メガネにプラスチックの鼻が付いているパーティ用品…
『…なぜこんなものが、ここに…』
「ぁあっ!それもしかして…俺の…!」
 笑いの収まらないその場に飛び込んできたのは、ミュウの中でも年若い少年だった。目を丸くして真っ青な顔で驚いている。
「あ…の…すみません…!ちょっと仲間内でふざけててそんなところに置いたままに…」
 彼は済まなそうに頭を下げながら、未だ笑いの余韻の残る輪の中に入っていった。リオの差し出したハナメガネを受け取ると、更に済まなそうな色が深くなる。
『……ありがとう』
「…え?」
 その顔を見て、リオが優しく言った
『このメガネのお陰で、少し緊張がほぐれました』
「え…いや…その…!」
 少年はふざけたメガネを持ったまま目を白黒させている。どう言っていいものか分からなくなっている様だった。
「あの…!お気をつけて…!」
『…うん。行ってきます』
 リオは微笑むと、今度こそソルジャーの用意してくれたメガネを掛けて乗船した。


 出航する時に見送りの一団を見ると、ハナメガネを掛けた少年が大きく手を振っているのが見えた。


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